奈良の旅



建築・町並・彫像.

千三百年という途方もない歳月を得ても

いまなお生き続け,根付き続ける

誇り高い文化.

願わくは,時勢の作為も寄せ付けず,

あるがままの姿で在り続けんことを.





奈良・室生の旅





※この画像を拡大すると地図の文字も読むことができます。

生寺までのアクセス
 室生口大野駅から徒歩で向かう場合・・・ 上記ハイキングコースで片道2時間ほど
 室生口大野駅からバスで向かう場合・・・ 通常、1時間に1本ほどしか運行していないため、時間には注意が必要。
   なお、しゃくなげのシーズンになる4月下旬〜5月上旬にかけては臨時バスも運行され、1時間に2本ほどになる。

バスは本数が少ないため、往路はバス、復路は東海自然歩道のハイキング のコースがおススメ


  • 生(むろう)の地は、激流が岸壁を削ってつくった洞窟(竜穴)を持つ
    ことから、古くから神秘的な霊場として知られていた。

    そんな霊的な力を裏付けるように、奈良時代の桓武天皇が病身になった折、
    室生山中で延寿法を行ったところ平癒したという。

    その後、当時絶大な権力を持っていた興福寺の僧が天皇の特旨をうけて
    その場所に寺院を建立したところから、今日の室生寺が創立されたといえる。

  • 石楠花(しゃくなげ)の花は春が見ごろだが、
    私が訪れた年は例年よりも気候が寒かったためか、
    まだ満開とはいかない様子だった。



    金堂、弥勒堂と続き、平安時代から残る、
    十二神将像や如来像・菩薩像が安置されている。
    千年の年季の入った建築物と仏像が、
    原風景の味わいをいまに遺している。
    堂内を覗くと創玄な空気をひしひしと感じる。


    山深い杉並木の中に立つ五重塔は、
    国内では羽黒山と室生のものだけだろう。
    こちらの五重塔は女人高野という呼び名が相応しく、
    白と朱塗りの色彩は可憐であり、
    杉並木の合間に優美に聳えている。



    奥の院までの道のり。
    うず高い杉並木はとても一画面に収めることができない。
    境内から五重塔までは近距離であることから、
    気楽に登ろうとすると、その甘い考えが吹き飛んでしまう。

    片道700段の道のりでたどり着く奥の院。
    高台のそよ風が火照ったからだに清清しい。

  • 東海自然歩道
    私は往路はバスで、復路はバスの時間を気にせずに
    東海道自然歩道を歩いて帰路に着くことにした。
    (下記の写真をご覧いただけば判っていただけると思いますが、
    上記MAPにあるハイキングコースは片道2時間ですが、
    景色の変化に富み、山間の里風景、渓流沿いの林道、
    高台からの景色などが楽しめる絶好のハイキングコースです。
    時間に余裕のある方には、片道だけでもお勧めします。)

    室生寺























  • 室生口大野駅到着!









  • 良ホテルを起点として散策すると、
    周辺を一巡するように主要な観光地をめぐることができた。

    @奈良ホテル
    日露戦争戦勝を契機として、当初は外国人誘致のために設立された
    格式と歴史を持つ奈良ホテル。

    相次ぐ経営陣の入替り、戦争、戦後の連合軍による接収など
    様々な紆余曲折もありながら、現在に至る。
    その凛とした姿は奈良の歴史ある町並みと一体化している。

    アインシュタインが弾いたピアノ。
    かの乃木将軍や満州国皇帝溥儀も宿泊したと聞くだけでも
    ホテルの持つ歴史の重みを感じることができる。

    Aささやきの小道
    志賀直哉の旧居がある趣のある小道。


    春日大社まで続く小道の途中、
    鹿の群れがゆったりと横断していった。
    春日大社では鹿が神使とされるが、こういう光景を見ると
    神社とともに息づいていることを実感できる。


    B春日大社
    石燈篭が延々と並ぶ参堂を歩くだけでも、
    凛とした空気へといざなわれる。



    C東大寺
    幼少期の家族旅行、もしくは修学旅行などで訪れたときに受けた印象そのままを、
    大人になり同じ建物を見て感じ取ることは少ないように思える。
    それが、この南大門を通ったときに、はっきりと幼少期に受けた印象が蘇ったのを感じた。
    ただ純粋に、この門の持つスケールに「すごい」と圧倒される感覚であった。
    南大門の建立は鎌倉時代で、大仏殿(金堂)よりも遙かに古い。

    「大仏様」という日本では珍しい建築技法は中国伝来のもので、日本の繊細な建築物に比べると
    まるで骨がむき出しのような建築は荒々しく、そこがまた味であると思うが、
    日本ではこの建築技法は浸透しなかったそうである。

    この大仏殿は江戸時代に再建されたものだが、焼失される前の金堂は
    現在より30メートル近く大きかったそうだ。
    江戸時代の建築は、予算的な制約もあり、
    かつての時代のような巨木の入手が困難となり、
    巨大建造物の建立には不向きだったため、大変な苦労があったようだ。

    D興福寺

    奈良時代には強い権力を持っていたという興福寺も、
    時勢の潮流には抗えず、翻弄されることとなった。
    それまで幕府に保護され続けてきたが、
    江戸幕府が崩壊し明治政府が起こると、
    天皇中心とする神道国家体制を徹底し、
    神道以外の宗教が激しく弾圧されはじめた。
    境内は塀が取り壊され、寺領は四散した。
    今日、興福寺が奈良公園と一体化しているように感じられるのも、
    そのときの傷跡の名残であるという。

    時間は変わって、夜の猿沢池から眺めた興福寺はまた美しい。

    Eならまち
    江戸時代に商業で栄えた町並みが、
    第二次大戦の戦火からも逃れたことから、旧市街地として残り続けた。
    その町並みを保存する動きが起こったのは意外にも
    そう遠くない近年(1980年代)のことで、そこでこの町並みの景観が
    いかに風情に溢れ文化的に貴重であるかということが再認識された。

    観光地であっても、そこにある町並みは自然体であって、
    造られた作為的なものが感じられず、それが一層に旅情を増すものである。
    木造建築の保存は常に困難が付きまとうが、いつまも奈良の町並みは
    変わらずにいてほしいものである。








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