鶴岡 旧西田郡役所のペーパークラフト





山形

擬洋風建築めぐり

山形の旅(2)






山形の旅(2) 擬洋風建築めぐり


  • 山形 擬洋風建築めぐり


    江戸時代には、「西の堺、東の酒田」と謳われたほどに栄えた庄内藩。
    地の利を生かした商業交易都市として権勢を誇り、
    日本一の大地主と言われた本間家のような豪商も現れた。

    酒田 旧本間家邸宅


    幕末期、戊辰戦争では会津藩・仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力となり、
    本間家の財力からヨーロッパの最新式兵器を購入、プロイセンとの
    同盟などを模索しながら、最後の最後まで新政府に抗った。
    そして、恭順の意を示す最後まで、自領への新政府の侵入を許さなかった。

    戦後の処置として、会津藩などが見せしめの厳罰に処させる一方、
    庄内藩は比較的軽い処分にとどまった。
    この背景には西郷隆盛の意向があったといわれ、
    東北地方が薩長への確執を遺した一方で、
    庄内藩だけは薩摩藩との良好な関係が生まれた。

    しかし、新政府の支配下となっても、
    庄内藩は自領を自力で守りきった国。まだ抵抗する力をひそめていた。
    そのため、明治政府に対して反感を抱くものも少なくなく、
    旧庄内藩士による一揆も起きた。
    明治政府としては威信を示す必要があり、
    そこで行われた政策のひとつが、文明開化を押し進めることにより、
    時代が変わったことを民衆に告げることだった。


  • 鶴岡

    鶴岡には擬洋風建築の建物が多く残るが、
    それはこういった背景で建てられたものとなる。

    朝暘学校


    明治9年には、当時日本最大の擬洋風学校、「朝暘学校」が建ち、
    鶴岡の人々を驚かせた。
    この建物は残念ながら現在では失われているが、
    ミニチュアから察するに素晴らしい擬洋風建築の建物だっただろうことが判る。

    そしてこの後、庄内の洋風建築には欠かせない人物、
    高橋兼吉が活躍し、山形県には名建築が幾つも生まれていく。

    致道博物館 旧西田川郡役所


    高橋兼吉は旧藩主、酒井家のお抱え棟梁として活躍した。
    あの「朝暘学校」の建立に携わり、
    その4年後の明治13年に、西田川郡役所を完成させるが、
    それがいま、鶴岡の歴史的な建物を移築保存している
    致道博物館の中に残っている。



    この西田川郡役所は、何より瓦屋根の色が美しく、目を惹きつける。
    この屋根瓦は、明治政府の廃城令により解体された、 鶴ヶ岡城の
    瓦を再利用している。
    石州瓦にも似た発色の瓦と、洋風を基調とした白の外装は
    お互いの存在を調和し、引き立てあっているように見える。

    山形で広がったのは下見板の擬洋風と呼ばれ、
    それまで一般的であった、漆喰の擬洋風とは異なるようだ。
    下見板にペンキを塗って仕上げることからそう呼ばれるようだが、
    この技術は、もともとはヨーロッパのもので、日本では先ず
    北海道開拓使に伝わり、札幌と山形で技術交流があったため
    伝わってきたようだ。


    鶴岡には、致道博物館周辺だけでも、貴重な文化財が残る。

    鶴岡カトリック教会 天主堂
    明治36年に創建、
    ロマネスク様式建築の傑作として、
    教会では数少ない国の重要文化財に指定されている。


    大宝館
    大正天皇の即位を記念して建てられた、赤いドームが印象的で奇抜な擬洋風建築。
    擬洋風建築の歴史の中でも終盤に建てられた建物となる。




  • 酒田

    高橋兼吉は、酒田のシンボル、山居倉庫の建設にも携わっている。
    酒田は庄内平野の物資を運搬する要である最上川の河口にあり、
    また日本海の交易の要所であったことから、
    交易都市として栄華を誇った。

    日本海の交易では、
    北海道を含む北陸以北の日本海沿岸の港から、
    はるか南西の下関を経由して瀬戸内海から大坂に向かう航路を通る
    「北前船」と呼ばれる交易が盛んだった。
    一方、最上川は古く平安時代から交通路として機能しており、
    酒田から米沢までの内陸間で物資が行き交った。

    山居倉庫


    山居倉庫は江戸時代から存在してもおかしくないような佇まいだが、
    先にも述べたように、この建物は明治期に高橋兼吉により建てられた。
    酒井の豪商、本間家と、旧藩主であった酒井家が協力して倉庫業を始め、
    明治期の米穀市場の拡大により発展していった。
    山居倉庫には、酒田の気候風土に適した
    倉庫内の温度・湿度を適切に保つような仕組みが随所にあり、
    日本の伝統的な構造に加えて西洋技術も用いられている。



    いまや酒田の風景のシンボルとなっているこのケヤキ並木の
    景観も、倉庫を夏の強い日差しや冬の日本海の強風から
    守るために植えられたもの。

    旧本間家邸宅


    酒田の発展には欠かせない存在である本間家の旧本邸も残る。
    本間家は三井・住友家に匹敵するほどの大商家だったらしいが、
    起業・興業には執心せず、財閥化することもなく、
    塩害を防ぐため、庄内浜の砂丘地帯に松を植林するなど、
    ただ酒田の近代化に力を注いだという。


    酒田の町の散策には、駅前で無料で貸し出されている自転車がおすすめだ。
    酒田の潮風にふかれながら、点在する観光スポットを巡れば清々しい気分になる。
    相馬楼
    江戸時代には酒田を代表する料亭だった相馬屋を、舞娘が案内をしてくれる

    山王くらぶ
    こちらも明治28年創業の老舗料亭を、観光施設として生まれ変わらせた施設。
    相馬楼ともども、内装の絢爛豪華さに、当時の料亭文化を垣間見れる。




  • 山形市(山形駅周辺)

    済世館


    山形にいまも残る擬洋風建築として最も奇異な建物が、山形市内に残る。
    中国の福建省の土楼を思わせるような形状で、はた目には
    なんの建物か想像もつかない。




    この建物は、かつて横浜にあった英国海軍病院を参考に、
    大胆な形状に作られた病院である。
    凝った外装、必要以上に派手な塔、病院という施設には不要な代物と
    思えるが、こんなものが建てられてしまうのには時代背景があった。
    前述のとおり、明治政府や山形県で文明開化の風を吹かせる必要があり、
    このように強烈な印象を放つ建物を、あえて作ったのだ。



    済世館と名付けられ、近代的な医療機関の病院として活躍した。
    山形県内では、山形県令を務めた三島通庸の指示により、
    次々に擬洋風建築が建てられた。
    先に述べた「朝暘学校」もそうだったが、残念ながら現存するものは
    この建物しかない。
    山形市内には他にも
    文翔館や旧山形師範学校本館など素晴らしい洋館が残る。

    文翔館

    旧山形師範学校本館


    これ以外にも山形にはまだまだ洋館が存在し、
    日本の擬洋風建築を語るうえで、山形は欠かせない場所となっている。



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