京都・島原のペーパークラフト
京都・伏見のペーパークラフト
昔町の旅2
京都 島原・伏見
島原(京都)
伏見
関連リンク
京都の旅(高台寺・一乗寺付近)
島原(京都)
嶋
原、京都の花街。
豊臣秀吉が京都の再興にあたり花街を公許したことが
始まりだが、その後の二度の移転、特に現在の地へと
移転するときの騒動が、時にあたかも九州島原の乱の直後で
あったため、それになぞらえて嶋原と称されるようになったという。
嶋原へのアクセスは、京都駅から間もなく、「丹波口」駅から
中央市場を抜けて住吉神社に至ると直ぐである。
大門
嶋
原は、かつての花街である。
「花街」と「遊郭」の区分けが明確になるのは
明治に業務区分が行われて以降。
「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方「遊廓」は歓楽のみが中心となる。
「遊郭」は赤線地帯、「花街」は現在の祇園のような姿を指すだろう。
ただ、それ以前はそういった区分はなく、江戸時代には公娼集娼制度があり、
幕府が定める特定区画があったのみである。
島原は「花街」としての代表格であっただろうが、
単なる「遊郭」から区別されたのには理由がある。
文芸が発展したのには「太夫」の存在と、「揚屋」のシステムが欠かせなかったのだろう。
揚屋
というのは単なる娼館ではなく、遊宴の場である。
遊宴といってもただの遊びではなく、遊女が文芸を披露する場でもある。
島原では公家や武家の客人をもてなしたことから、
文化・教養に精通することが要求された。
それゆえ、島原の遊女は競って芸に磨きをかけた。
江戸時代に遊廓が整えられ、遊女の階級性が確立し、
美と教養(文芸)を兼ね備えた最高位の遊女に与えられた称号が「太夫」だった。
ただ、あくまでこのシステムは富裕層に向けられたもので、
大衆にとっては敷居が高すぎた。(むしろ、縁のないものと思えたに違いない。)
実際、大衆に流行ったのは「遊郭」のほうで、
単なる遊郭は文芸などが要求されない、直接的でわかりやすいものである。
「遊郭」の代表格は江戸・吉原で、
文芸等を要求されない遊女の中での最高位は「花魁」という。
角屋
いまも島原に残る角屋は「揚屋」で、
輪違屋は「置屋」であった。
「置屋」とは遊女が寝食を行う場であり、遊女は客に呼ばれると、
「置屋」から「揚屋」に向かった。
太夫ともなれば、その揚屋入りが派手となり、まるで大名行列のようであったという。
輪違屋
島原は現在は花街として名残がある部分は少ないが、
そういった背景を踏まえて訪れてみると、より興味深くなる。
伏見
伏見
京阪線「中書島」駅からアクセスできる。
宇治川渓流の水の町、伏見は、
伏水という名水に恵まれ、古くから造酒が行われてきた。
中でも月桂冠の酒蔵を含む一連の建物は素晴らしく、
京都の中でも必見の場所といっていい。
年季を感じさせる木壁が画面におさまらないほど長く続く。
左上の写真だとスケールが小さく感じるかもしれないが、
実際は巨大で迫力がある。
町屋の地面に取り付けられている、美しい曲線を描く竹。
これは「犬矢来」と呼ばれ、犬や馬が壁を傷めないようにするために
取り付けられている。
月桂冠の裏手にある濠川。
ここは伏見を代表する景観だろう。
濠川は、かつて大阪から京都に舟ではいる玄関口として、
物流拠点の役割を果たしていた。その頃はここは
舟が行き交い、旅客が賑わい、宿場町として栄えていた。
私が訪れたのは2013年9月。9/16の台風18号の影響で
宇治川が氾濫、伏見一帯も大きな被害を受けた数日後だった。
それが証拠に、上の写真では草木が一面を境に泥をかぶり、
変色している。石垣の色もくっきり変わり、水位がここまで
上昇していたことが一目で読み取れる。
正直なところ、もっと甚大な被害が出たのだろうかと推測していたが、
観光していて被害の跡が読み取れたのはここ、濠川とその周辺一部だった。
現地の方は急ピッチで復興を進め、大変な状況でも
普段どおりの営業を再開されていたのだろう。
台風18号の被害に遭われた方々には、
謹んでお見舞い申し上げます。
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