北海道開拓を巡る旅

札幌・小樽


北海道開拓

それは過酷で困難な道

先人が幾つもの苦難を乗り越え

やがて日本一の酪農地帯となった





北海道開拓を巡る旅/札幌




  • 北海道開拓


    北海道開拓の村 旧札幌停車場


    海道は、函館などの一部の南の地域を除き、
    明治時代以降にはじめて本格的に入植・開拓された未開の地であり、
    ここ百数十年の間に、現在の姿にまで発展した、日本人にとっては
    いわば新興地といってもいい。

    明治になって本格的に開拓されるまで、北海道の地は
    原生の大地が手つかずのまま残っていた。
    明治政府より北海道開拓を一任された黒田清隆が
    先ず着手したのが、
    北海道のインフラ整備、そして産業の準備だった。


    小樽市総合博物館

    北海道という広大で極寒の地にインフラを整備するのは
    一大事業であるが、これを実際に断行したのが、
    明治政府が捕えた「国賊」を主体とした囚人たちだった。
    ただ、あまりに過酷な労働と無慈悲な看守の扱いから、
    多数の犠牲者が出て次第に問題となったため、
    囚人による開拓は廃止。代わりに開拓事業は
    民間に払い下げられるが、民間企業がこれを行ったところ、
    いわゆる「タコ労働」という悲惨で過酷な労働形態が生まれ、
    今度は東北地方の貧民などが犠牲になり、
    それによりインフラ整備が強行された。

    産業面では、
    小規模な稲作を中心とした日本の農業では、
    広大な地を耕す大規模農園のノウハウを持ち合わせていなかったため、
    開拓使顧問ケプロン氏、クラーク博士をアメリカから招き入れ、
    西洋式農業の移入や、酪農の定着を進めた。

    また、未開の内地の開拓として石狩平野がターゲットとなり、
    開拓の中心はこれまでの函館から、
    山地を避けて北海道の中心に近い、
    石狩平野の中心の札幌へ移設される。

  • 札幌


    北海道開拓の村 旧農家住宅(開拓時代)

    1875年5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した。
    この屯田兵とは、有事には兵士となる開拓民のことだが、
    初期は、明治維新により職を失った士族のみが対象となり、
    務めることとなる。そのため、平民は士族の養子となって
    屯田養子と呼ばれる方法で屯田兵となったが、
    後に士族という条件は撤廃される。
    この屯田兵がアメリカ型大規模農園を模範とした区画整理などを
    推進させ、現在の北海道の区画の礎を築いた。

    次に、財政基盤を失った士族や貧窮の農民による
    開拓移民も続々と行われた。
    新千歳空港から札幌に電車で向かうと「北広島」という駅を通るが、
    北海道にはこうした全国各地の地名が付いた場所が多くあるのは、
    農民や士族の団体移住者が郷土の名前を付けたからである。

    開拓者たちは苦しい生活を強いられた。
    原生の森の中で原始的な生活を強いられ、
    その中で真冬の極寒に耐えなければならない。
    また、開墾だけでは食べていくことができず、
    出稼ぎ等の副職も必要になり、
    働き詰めても満足な生活ができなかった。
    5町歩の開墾に成功すると土地の付与を受けるという条件のもと、
    開拓者たちは励むが、それも順調に行き4、5年かるという。
    開墾中に洪水や冷害といった気候が恵まれない年が発生すると、
    たちまち生活はとん挫してしまう。
    開墾を諦めて放浪する者も絶たなかった。



    札幌の建物の代名詞といえば時計台だが、
    この時計台はもともと、札幌農学校の演武場であり、
    開拓時代当時の姿を遺す貴重な建物である。
    札幌農学校は、内村鑑三・新渡戸稲造など優秀な人材を輩出した、
    北海道の教育の礎となる学校で、
    初代学長クラークが1期生との別れの際に遺した言葉はあまりに有名である。
    「少年よ、大志を抱け」


    旧本庁舎

    また、札幌には「赤レンガ」と親しまれる旧本庁舎も残るが、
    この優美な建物の正面に目立つ赤い星は、開拓使のシンボルマークである。


    北海道開拓の村 開拓時代の本庁舎

    他にも開拓時代の建物を多く遺す場所として、
    「北海道開拓の村」がある。(新札幌駅からバスで15分ほど)
    ここには火災で焼失してしまった開拓時代の本庁舎が再現されていたり、
    屯田兵の家屋がそのまま移築されていたり、
    さまざまな商家、農家、学校がそのまま移築され残っている。


    北海道開拓の村 漁村の風景

    上述の開拓時代の背景を踏まえてこの場所を訪れると、
    一軒一軒の建物に移民してきた人々の背景も鑑みることができ、
    この場所が一層感慨深いものとなる。
    ただ、この場所に建つ木造の家屋は、北海道の土地に根差すような
    姿はしておらず、素朴で質素な外観をした日本家屋が多い。
    それはつまり、防寒対策としては不十分であり、
    長い冬の生活は厳しかっただろうことが想像できる。




  • 小樽


    樽は札幌とともに開拓時代から重要な都市となり、
    函館に次ぐ海洋貿易の中心地となった。
    いまや観光名所となっている運河は、
    船舶の荷役を埠頭に接岸して行う接岸荷役が
    当たり前になった近代からは不要な存在となったが、
    保存活動により当時の姿のまま残されている。



  • 祝津



    祝津は現在、美しい海岸線を持った素朴な漁港である。
    小樽から「おたる水族館」行きのバスで15分ほどでアクセスできる。


    小樽貴賓館


    小樽の初期経済は鰊漁によって基盤が築かれた、
    と言えるほどそれは重要な産業だった。
    祝津にはニシン漁で栄え、巨万の富を得た網本たちが立てた
    豪邸がいまも残る。


    小樽貴賓館

    旧青山別邸は、小樽貴賓館の名に相応しく、
    豪勢な内装が目を引く。


    小樽市鰊(にしん)御殿

    小樽市鰊御殿は小高い崖の上という最良の景観に建つが、
    この建物は移築保存され、現在の場所になった。


  • 余市
    小樽から電車で倶知安方面へ20分ほど行くと、余市へアクセスできる。


    余市蒸留所

    余市もまたニシン漁の主要港であるとともに、
    日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功した場所でもある。
    また、朝の連ドラ「マッサン」でも取り上げられているが、
    ニッカウヰスキー起業の地であり、
    竹鶴政孝がこだわりぬいて作った、
    まるで外国のような景観を持つ余市蒸留所がある。



    スコットランドの気候風土に似ているという理由で選ばれた余市。
    蒸留所もスコットランドを手本としているため、
    独特の形状の建物が並ぶ姿は、異国情緒を感じることができる。




    普段はお酒を好んで飲むことのない人間でも、
    ここに来てウヰスキーについて学び、また竹鶴政孝の
    真摯な取り組みを知ると、
    それだけのこだわりのある味とはどんなものか、
    無性にウイスキーを飲んでみたくなることだろう。

    竹鶴政孝氏も、資金難から生活に苦労し、
    思考錯誤を繰り返しながら、血のにじむような努力でウイスキーを
    完成させている。
    多分、その姿は朝ドラでも詳しく描かれるのだろう(2014/9時点では未放映)。

    北海道という極寒の地の開拓も同様に、
    これまでの日本の開墾手法では通用しないことが多く、
    先人達が知恵と努力を重ねていまの文化を築きあげた。
    北海道を訪れるとき、そのことを少しでも思い出して
    周囲を眺めると、また違った景観を見ることができるかもしれない。



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