八幡掘のペーパークラフト



近江八幡の旅


近江商人の礎
八幡掘と
ヴォーリズ建築








  • 江八幡は、近江商人とヴォーリズが礎を築いた街である。

    近江八幡駅には、
    京都から琵琶湖線新快速でわずか30分あまりで到着できるため、
    京都の観光とあわせて立ち寄ることもできるし、
    のんびり時間をかけて琵琶湖周辺の観光地を巡るのもいい。

    近江八幡の八幡掘、新町など見所が集中するエリアまでは、
    駅からは距離があるため、小幡上筋までバスで行くと便利である。


  • 八幡掘



    八幡掘は近江商人を育んだ重要な場所である。
    日本三大商人(大阪・伊勢・近江)の一つである近江商人は、
    実は、いまも残る大企業にもその系譜を持つものが多いという。
    20世紀に入って経営学という学問により再認識された
    ような経営者の考え方を、近江商人は昔から持っていた。
    「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」である。
    これを代表として、独特の行動理念を持っていたからこそ、
    近江商人は全国各地で発展することができたのかもしれない。



    そんな近江商人の発展の土壌は、
    ここ八幡掘にある。
    この地に築城した豊臣秀次。
    堀は本来、城を防御するために設けるが、
    秀次はこの堀を運河として利用することを
    考え、琵琶湖で往来する荷舟をここ八幡掘に寄航させた。
    それにより、八幡掘は商人の一大集積地となった。
    また、かつての安土と同じく、楽市楽座を取り入れたことから、
    商人の町として著しい発展を遂げた。




    いまや時代劇には欠かせない江戸風情が残る
    八幡掘であるが、時代の変遷とともに
    物流の中心が車などに奪われると、
    運河の役割を終え、一時期は見捨てられた堀となっていた。
    経済発展による生活排水・工場排水の汚染の影響もあり、
    どぶ川のようになっていた八幡掘は、
    埋め立てる計画も立った。
    だが、その危機から保存の声が強くなり、
    市民による保全・清掃活動が行われ、
    いまの風情ある姿が復活した。

    当時の汚染された姿の写真と比べると、
    地域住民の方がいかに努力してここを
    復活させたのかがよくわかる。

  • 新町
    近江商人の邸宅が並ぶ、江戸風情が残る町並み。


    意匠の凝った商家が並び、塀越しに見える「見越しの松」がまた風情だ。



  • ヴォーリズ建築郡
    ヴォーリズの遺した建築は、近江の町に点在している。

    池田町洋風住宅街


    ヴォーリズは1905年にキリスト教の布教を目的に来日。
    英語教師に赴任し、やがてその熱心な人柄から人心を得、
    聖書の講座に学徒が集まるようになった。
    しかし、学長がそれに難儀を示したため、わずか2年足らずで解任された。
    それでも近江の地に残り、めげずに活動を続け、
    建築会社「ヴォーリズ合名会社」を設立。
    ヴォーリズが手がけた建築は全国各地に1600と膨大で、
    誰しもどこかで見たことのある有名建築は、実はこの
    ヴォーリズによるものだったりする。
    その建築思想は、日本の西洋建築に大きな影響を与えた。

    旧八幡郵便局



    また、建築に限らず医療分野おいても
    近江セールズ(近江兄弟社の前身)を興し、
    彼の人脈から販売権を譲り受けたメンソレータムを普及させた。
    数々の功績を残した彼を、内村鑑三はこう評した。
    「ヴォーリズ君は世に稀に見る建築術の天才であり、
    また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります。」

    ヴォーリズは母国アメリカとの戦争を控えた1941年に
    日本に帰化し、一柳米来留と改名。
    西洋人が冷遇される戦争期を耐え、日本に残り続けた。

    近江八幡が「世界の中心」と言うほど近江を愛した
    ヴォーリズの手がけた建物は多くあり、
    また、彼の邸宅もいまに残る。

    ヴォーリズ邸宅



    彼の手がけた会社、
    一粒社ヴォーリズ建築事務所や近江兄弟社は
    いまも近江八幡の顔であり、彼の理念や精神は
    いまもここ、近江の地に生き続けている。




- Click Map -



Welcome

AMFF by TAK
画像の無断転載・複製はご遠慮ください。


inserted by FC2 system