大浦天主堂のペーパークラフト

外海(そとめ) 出津教会のペーパークラフト

長崎の旅

遠藤周作の旅
(沈黙/女の一生)

キリシタン受難の歴史
それは救いようのない

歴史を垣間見る
深い悲しみの記憶


外海のまちには
いまも息づく
ド・ロ神父の人類愛と
信徒の敬愛

そこにはたしかに
遠藤周作氏の
作品のラストのような
救いが感じられた





     「沈黙」の舞台 外海(そとめ) 出津(しつ)/黒崎
       ・沈黙の碑
       ・出津教会
       ・黒崎教会
       ・外海の海
       ・遠藤周作文学館

     「女の一生」の舞台 長崎市内
       ・大浦天主堂
       ・丸山 思案橋
       ・唐人屋敷


  • は江戸時代、徳川幕府が豊臣秀吉の政策を踏襲して、
    キリシタンの迫害と宣教師の追放が行われていた時代。
    信徒たちは磔や穴吊りの拷問を受け、棄教をせまられた。
    信徒や宣教師たちはあらゆる拷問に、不屈の精神を持って耐え抜いた。

    そんな中で、イエズス教会の中でも最高職の地位につき、
    取り分けて信仰厚く神学的才能に飛んだフェレイラ教父が
    「転んだ」という衝撃的な事実から、物語は動き出す。

    ローマ教会にとって、これは大きな屈辱でもあった。
    大国ヨーロッパの信仰が、未開の国で敗れたかのように感じられた。
    フェレイラ教父を師として崇めていた弟子たちもまた、
    信じられなかった。そこで信仰の熱情に燃える若い司祭は
    事の真相を確かめるため、日本への危険な渡航を決意する。


  • 語の主人公、ロドリゴは、険しく長い航海の末、
    ようやく長崎の海岸に流れ着いた。
    そこが物語の舞台、トモギ村だった。

    トモギ村は架空の村だが、
    沈黙の多くのエピソードは史実に基づいている。
    遠藤周作がイメージした場所が
    ここ外海(そとめ)の農村だった。

    外海は、いまや長崎市内からバスで一時間ほどで
    行ける距離だが、当時は山と海で隔離された陸の孤島だった。
    陸の孤島ゆえに監視の目が行き届かず、
    信徒たちの一部は迫害から逃れることができた。
    外海がキリシタンの母郷と言われる所以は
    そこにあり、この時代からおよそ200年間、
    隠れた信仰の灯は絶やされずに続くことになる。

  • 出津(しつ)


    沈黙の碑が建つのは、外海の海岸が一望できる絶好の場所で、
    遠藤周作自身も「ベターではなくベストな場所」と喜んだそうだ。

    長崎駅から長崎バス「板の浦」行きの直通バスに乗り、
    出津文化村バス停で下車すると沈黙の碑は目前となる。
  • 出津に平坦な場所は少なく、山の斜面に沿って家々や田んぼがつくられる。
    このような海岸線の景色の中に、ロドリゴたちは上陸した。


  • は「沈黙」から逸れるが、
    この出津も、隣地の黒崎も、宣教師ド・ロ神父の救済を受け、
    多くの人々が救われている。

    ド・ロ神父が外海に赴任したのは
    まだ宗教弾圧の名残が部落差別として残る時代。
    この外海の村々は「沈黙」のトモギ村と同様、
    極限の貧しさや周辺からの差別に苦しめられていた。
    そんな農民たちの極貧ぶりに心を打たれた神父は、
    農民のために私財を投げ打って奔走した。

    ド・ロ神父はおおらかで快活な人物といわれ親しまれていたが、
    同時に人類愛の精神に満ち、建築や医学、農業の知識にも長けた
    万能の尊敬すべき人物だった。
    村民からいかに愛された人物であったかは、ここ外海の町を
    訪れるといまでも伝わってくる気がする。

    この素朴ながらも趣の深い出津教会も、
    ド・ロ神父が設計した建物のひとつ。
    後述の黒崎教会もしかり、
    西洋建築でありながら日本の屋根瓦を残すなど、
    和洋折衷で日本の農村風景により溶け込んでいる。

    神父の設計思想は、五島列島などに美しい教会を
    幾つも遺した鉄川与助に引き継がれていく。


    出津の町を見下ろせるような丘の上に建つ。村民にとって、
    どこからも見えるこの建物は心のよりどころとなったに違いない。
    正午にはフランスから取り寄せた鐘が優美に鳴り響く。



  • 津の隣、黒崎にある教会も同様に
    ド・ロ神父が指導して、信徒たちの努力により建てられた。
    煉瓦も信徒がひとつひとつ積み上げたそうだが、
    丘の上に凛と聳えるその姿は心に響くものがある。
    内装もゴシック調のコウモリ天井やステンドグラスが美しい。
    黒崎教会へのアクセスはバス停「黒崎教会前」下車すぐ。



  • 本という国に、キリスト教が根付く土壌があったかどうかはわからない。
    村八分のような閉鎖的な慣習で生きる日本人にとって
    キリスト教は、はた迷惑なものに捉えられたかもしれない。
    しかし、極貧で苦しむ農村の人々には、それは違ってみえた。
    重労働と重税に苦しむだけの救いのない地獄のような生活に、
    一点の人間らしい救いが見出されたのが、まさにキリスト教だった。
    彼らにしてみれば、自分たちが救われるなどと、これまで思ったことすら
    なかったのであろう。だからこそ、極貧にあえぐ農民たちに
    キリスト教は浸透し、この地に信仰の根を下ろした。

    だが、政治が絡むと話は別になってしまう。
    当時のイエズス会の政略には侵略戦争といった作為も
    こめられているため、日本も気安く受け入れることはできない。


    び「沈黙」の話に戻るが、
    トモギ村で隠れながら布教を続けたロドリゴも、
    間もなく幕府に囚われてしまう。
    その先に待っていたのは、想像を絶する責苦だった。
    この悲惨な状況下をも救おうとしない、神の沈黙について、
    ロドリゴは精神的な葛藤を続ける。

    ロドリゴが棄教しなければ、無関係の信徒たちが殺される。
     「お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、
     その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。
     見い。血がまた流れよる。
     何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる。」
    モキチとイチゾウが水磔に処されたのも、
    蓑を巻かれた信徒が海に投げ込まれたのも、
    この外海の美しい景観のような場面で行われた。


  • 遠藤周作文学館は小高い丘の上に建ち、
    外海の美しい海岸線を一望できる。
    バス停では「道の駅」が最寄だが、
    出津からは橋を渡り続く山沿いの道を歩くことで
    徒歩でも30分もあればたどり着ける。


    語のクライマックス、かつての師フェレイラは、
    ロドリゴに棄教を迫る。
    「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。
    そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、
    神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で
    神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」

    ついにロドリゴは棄教を決意し、踏み絵に足を踏みかけた。
    その時、はじめてこたえがきこえた。
    「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。
    だが、その足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちの
    その痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」

    「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
    この物語は、この言葉とともに帰結する。



  • ドリゴが棄教してから二百幾年。
    この間、門戸を閉ざした日本に
    宣教師は訪れることなかった。
    それは途方もなく長い歳月であり、
    この間に信仰の灯は消えていてもおかしくはなかった。

    世界では帝国主義が台頭し、
    産業革命により科学も飛躍的に進歩していた。
    そんな中で取り残された存在の日本は、
    黒船の来航により危機的状況を自覚するに至る。

  • こ大浦天主堂は、門戸開放の折、フランス人向けの礼拝堂として
    建設された。
    史実上の「信徒発見」の舞台となるこの場所は、
    「女の一生」の主人公ふたりにとっても欠かせない場所となる。


  • 藤周作が長崎に来た際には必ず立ち寄るという、
    大浦天主堂の脇道、祈念坂。

    たしかにここに来ると
    観光地としての喧騒から逃れられ、自分の時間に
    浸ることができる。


    祈念坂を登りきってから見える眺望。長崎湾が見渡せる。


    猫が景色を眺めるようにしばらく佇んでいた。
    遠藤周作氏も、このように石段に座って長崎湾を眺めたことだろう。


  • 徒発見から、その後も信仰を守り続けてきた
    信徒たちが次々に見つかり、信徒たちの行動も、
    神父たちの行動も、次第にその騒動に
    呑まれてエスカレートしはじめた。

    幕府はこの煙のような騒動をいち早く察知した。
    そしてついに、「浦上四番崩れ」が起こるのである。

    このとき、主人公キクが想いを寄せる
    キリシタン青年の清吉も捕らえられてしまう。
    キクはキリシタンではなかったが、聖母マリアに
    清吉の無事を祈願した。
    そして、清吉も厳しい拷問に耐え続けた。

  • 代の流れはふたりを翻弄する。
    幕府が屈し、大政奉還が行われると
    世間は混乱し、キリシタンも解放される。
    そこでつかの間の再開を果たしたキクと清吉だったが、
    樹立した明治政府はまたしてもふたりの
    間を切り裂いてしまう。

    富国強兵を推し進める政府は
    思想統制として神道以外の宗教を激しく弾圧しはじめた。
    再び浦上の信徒たちは捕らえられ、清吉は津和野
    送られる。
    そこで、長い間厳しい極寒と飢えに耐え忍ばなければならなかった。


  • クは清吉を助けるため、花街に身を堕とす。
    長崎の花街、丸山。
    いまも当時の面影を残す建物は残っている。
    写真は料亭「花月」。古くは維新志士たちの縁がある、歴史の深い建物。


    遊女たちの不幸を語る伝承や物語はたくさんあり、
    いまとなっては花街の娼妓の存在を肯定できないが、
    花街の存在が日本の独自文化を洗練させたのも事実。
    それにしてもこの風情。外装の凝りも素晴らしく、
    この雰囲気に引き込まれてしまう。


    山の遊郭が隔離されていたことを物語る石垣の敷居が
    いまも残る。
    現在の花街跡の看板には、こう書かれていた。
     「丸山の特徴として、遊郭には主に長崎の町民や上方の商人たちが
     多く出入りしていたが、丸山遊女が唐人屋敷や阿蘭陀屋敷の出入りを
     許されていたため、異国人との交流があったことが他の遊女と異なる。
     この丸山だけは日本はおろか海外にまで知れ渡った国際的な遊郭
     であった。遠く祖国を離れ長崎にきた外国人にとって丸山の遊女たちは
     淋しさを癒すなによりのものであったであろう。まさに国際コンパニオンである。
     彼女らなしでは長崎の繁栄はなかったといっても過言ではないだろう。」


    誘惑に負けそうになった男が、行こうか、行くまいか思案するので
    「思案橋」という名のついた、丸山遊郭への入り口。
    そんな微笑を誘うような名前も地名として今に残る。
    思案橋は現在はただの道路の一角に、橋の跡が残されている。


  • 結核にかかったキクが最後の力を振り絞り、
    愛する男のために身を犠牲にした場所がここ、唐人屋敷。
    唐人屋敷も丸山と同様、現在も所々に面影を残している。



    キクは自分の最期を自覚し、ここから
    愛する男を偲べる場所、大浦天主堂へと向かう。
    雪が積もる大浦海岸通りを吐血しながら歩き、
    息絶え絶えに天主堂にたどり着いた。



    「うちは・・・ほんとに清吉さんば好いとった
     ばってん、あんたと違うて、うちん体はよごれに
     よごれきってしもうた・・・」
    聖母マリアは涙を流し、こたえた。
    「今夜の雪は一晩中、ふるでしょう。
     よごれたもの、けがれたものを、あのたくさんの雪が
     白く浄めるでしょう。やがてこの長崎の町は純白の
     世界になるでしょう。
     人間のよごれ、けがれ、苦しみ、罪がすべて
     その純白の雪のなかにかくれるように、あなたの愛が
     あなたにさわった男のよごれを消した筈です。」





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