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竹原、御手洗の
昔町を巡る
竹原、御手洗の昔町を巡る
竹原
広島の東部に位置する竹原。
かつては塩田の製塩町として栄えていた。
いまは塩田の名残りはないが、この町並みの礎には製塩の歴史がある。
そしてここには、広島でも有数の昔町が残っている。
岡山や尾道方面からのアクセスの場合、三原駅で呉線に乗り換えて、
竹原駅から徒歩10分ほどで、町並み保存地区へアクセスできる。
塩は時代とともに供給過剰となり、やがて廻船業、問屋業なども発達し始め、
また港湾の流通から米が大量にあったことから、酒造業が始まった。
酒造業が盛んになったのは明治維新後で、同じく広島で酒造業が盛んな西条などと
団結して品質向上に努め、広島の酒は全国で有数のものとなった。
そんな環境下で、ドラマにもなったニッカウヰスキーの始祖、竹鶴正孝の生家、竹鶴酒造も誕生した。
歴史的な建物に囲まれた中で、特に印象的なのが、「松阪家」。
江戸時代末期の築で、明治時代の1879年に改築された。薪・石炭の問屋業を中心に多角的経営で財を成した。
一番の特徴は、しなやかな屋根にある。むくり屋根は日本独特の美だが、この屋根は「反り」と「むくり」があり、波打つような
形状をしている。それが希少な佇まいであり、なんとも優美に見える。
この建物は洋館に見えるが、高台から見ると和風の屋根瓦がついていて、看板建築であることがわかる。
いま、竹原は商家建築を中心としながら、洋風の看板建築、洋館も建ち、それでいて
違和感のない昔町の姿として残っている。
また、この町並み保存地区には、宿泊施設もある。
「NIPPONIA HOTEL 竹原製塩町」は、塩田を営む浜旦那たちが築いた文化を受け継ぐというコンセプトのもと
作られた、町屋の一棟貸しスタイルの宿。
一棟貸しだと夕食の提供がないところも多いが、
ここではレストラン棟で瀬戸内の食材を使った一級の料理を堪能できる。
また、宿泊棟はそれぞれコンセプトが異なり、宿泊する毎に趣の違う部屋を楽しめる。
ただ、プランによってはどの部屋に泊まれるかわからないため、
宿泊する際はあらかじめ希望する部屋を伝えておいた方がよいかもしれない。
御手洗(みたらい)
御手洗は、大崎下島にある、小さな集落である。
かつては
鞆の浦
などと同様、潮待ちの港町として発展した。
御手洗へのアクセスは、しまなみ海道で観光バスや車で訪れるのが一般的と思われるが、
竹原からも、御手洗まで高速船でも行くことができる。高速船では瀬戸内海の美しい景色を堪能することができる。
ただ、御手洗港へ直接行ける便はほぼなくなってしまったため、大長港から徒歩でアクセスすることになる。
大長港行きの本数も少ないため、日帰りで竹原と御手洗を観光するのは難しい。
上述のNIPPONIA HOTELなどで竹原で宿泊するような場合は、合わせての観光をぜひお薦めしたい。
瀬戸内の島々を抜け、大長港に着くと、そこから御手洗は徒歩10分ほど。
御手洗までの道中の景色も美しく、見逃せない。
潮待ち、風待ちの港といての役割を終えた時、街は当時の姿のまま、凍結されたようになり、
いまに姿を残している。
観光地化が進んでいない、より原風景的な昔町の姿が残っている。
鞆の浦
などと同様、潮待ちの港の共通項として、遊郭があることが挙げられる。
ここ御手洗にもかつての遊郭跡の建物があり、また遊女にまつわるエピソードも残っている。
「若胡子屋跡」は、1724年には遊郭として創業し、最盛期には遊女100人を抱える御手洗最大の遊郭だった。
道は狭く、風情ある建物が林立している。中でもこの平野理容院は、角に立つ洋館としてひと際印象的だ。
越智医院は、大正初期に建築された木造の洋館。
御手洗の町は、廻船業や造船業としての役割を終え、現在は町の機能の中心は大長港に移った。
越智医院も大長に移転したため、一時は空き家になり、現在は宿泊施設を兼ねたカフェになっている。
私は10月に御手洗を訪れたが、まだ真夏のような暑さだったため、こちらで大崎下島特製の柑橘が使われたかき氷を
いただいたが、それは絶品だった。
集落のすぐ横には、美しい瀬戸内の海が広がる。
雁木の海岸線が美しく整備され、明治期の高灯籠もそのままの姿で残っている。
この点も
鞆の浦
と共通する印象を受ける。
竹原、御手洗はともに昔町でありながら、それぞれの特色と趣を持った、素晴らしい場所だった。
この二つの町をセットで訪れる人は少ないかもしれないが、個人的にはぜひともお薦めしたい。
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