伊豆

松崎・下田

なまこ壁の町

を巡る






伊豆 松崎・下田 なまこ壁の町を巡る旅


  • 伊豆 松崎・下田

    伊豆には、多くの「なまこ壁」の建物が残る。

    松崎町 なまこ壁通り



    「なまこ壁」は黒字の正方形を、盛り上がった白地が四方を囲んでいるもので、
    その姿は多様ながら、日本各地で見ることができる。

    黒の正方形は瓦であり、もともとは寺院などの床に敷かれる平瓦を壁に付ける。
    白の盛り上がりは漆喰を何度も塗り固めて盛り上げており、この「なまこ壁」を
    美しく見せるには、職人の腕と時間が必要になる。

    松崎町 伊豆文邸


    伊豆、特に西伊豆の松崎や南伊豆の下田で、
    この「なまこ壁」の建物が多くみれるのは何故なのか。
    一般的な説では、海の町である松崎も下田も、
    強い西風にあおられて大火事がたびたび発生したため、
    耐火目的のために普及したと考えられているようだ。

    松崎町 伊豆文邸


    なまこ壁の家は何故、耐火性が付くのか。
    それはなまこ壁そのものに耐火性があるというよりは、
    その耐水性の方に利点があったようだ。

    家が火災になったとき、火は壁に遮られて上に上昇しようとするため、
    家の軒下に熱がこもりやすく、もっとも燃えやすい場所となる。
    屋根の軒が伸びていると、そこが火事の温床になってしまう。
    ならば軒を短く、もしくはなくしてしまおうと考えるが、
    軒下がなくなると雨が直接壁に当たることになり、
    壁が傷んだり腐食しやすくなる。
    そのため、耐水性の高いなまこ壁を採用することで、
    軒下を短くしても丈夫で長持ちする家を建てることができた。


    松崎町


    現に、いまも残るなまこ壁の建物をみると、
    多くの家々の軒は短くなっている。
    また、この形状は蔵にも適しているから、
    なまこ壁の蔵も多くみられる。

    先述のとおり、なまこ壁を作るには職人の手間暇と技術が要ることからも、
    費用がかかる。故に、なまこ壁が多く残るということは、
    その町が裕福だったということの証明にもなる。

    下田も松崎も、拠点的な漁業により栄えた港町。
    下田は風待ち湊として全国的な海運の重要港であったが、
    さらに開港の港として、幕府から助成金が出て町並みが整備された。

    松崎は漁業だけでなく、養蚕や木炭生産でも栄えており、
    特に養蚕では明治期に富岡製糸場に倣った松崎製糸場も作られ、
    良質な生糸を生産して相場への影響力もあったようだ。
    それゆえ、松崎には財を成した商家がなまこ壁の家を建てた。


  • 松崎

    松崎には、見どころがいろいろある。
    春先には岩科川沿いに桜が美しく、また
    岩科南側(なんそく)の道から先をハイキングすれば、岩部の棚田の風景も
    見ることができる。

    今回、私は2016年初頭に松崎を訪れたが、春先に再訪したくなる、のどかな土地だった。

    松崎を訪れる際は、重文岩科学校には是非とも足を運んでいただきたいものだが、
    なまこ壁の町並みと、岩科学校は、車で訪れなければ少し距離(3kmほど)がある。
    バスは本数が少ないため、往復をバスで行くと時間をかなりロスしてしまう。
    そこで、下図のように往路をバスで、復路を徒歩で散策すると、
    2時間〜2時間半程度で周れるうえ、途中にあるなまこ壁の原風景的な、
    生活感のある集落「岩科南側」にも立ち寄ることができる。



    重文岩科学校

    松崎には当時の町の財力を象徴する重要文化財の学校がいまも残っている。
    重文岩科学校は、明治初期に建てられた擬洋風建築の中でも、
    比較的和の要素が強く、寺社風な建築な上、なまこ壁もある珍しい校舎である。


    また、松崎の左官職人、
    入江長八が手掛けたとされる彫刻の装飾が、懸魚や玄関に施され、細部の意匠にも目を見張る。
    長八の作品や、なまこ壁の外観といい、その土地の特色が生かされた学校というのがまた良い。



    入江長八は数々の鏝絵の傑作を遺しており、それは松崎町内の長八美術館でも見られるが、
    単なる左官職人の域を抜け出した、素晴らしい技術を持った芸術家だった。
    この学校の中には入江長八が手掛けた欄間「千羽鶴」が残っている。
    部屋そのものが長八の芸術作品となっており、一羽一羽異なった飛翔の仕方をする
    鶴が四方に描かれ、それを辿っていくと絵の中に引き込まれていくかのような感覚を引き起こす。
    しばらくこの部屋に佇んでいたくなるような、素晴らしい空間だった。




    岩科南側
    岩科学校を訪れたあとは、岩科南側(なんそく)にも訪れたい。
    ここには観光地化されていない集落の原風景が残っていて、
    松崎の観光の中心部とは違った味わいがある。





    岩科から松崎町なまこ壁の町並みに戻る最中には、のどかな田園風景が広がるため、
    すがすがしい散策ができる。



    松崎町 伊豆文邸
    明治の呉服商の店舗と住居。良質な生糸の産地ということから、呉服商も栄えていたことが伺われる。



    現在は無料休憩所となっているが、内装も美しく整備されている。
    私が訪れたときは誰も人がおらず、無断で立ち入っていいものかどうか躊躇したが、
    あとで管理されている方が巡回に来た際に話を伺えた。ここは基本的に無人で公開しているようだ。
    これだけ立派な施設を無人状態にしているというのには、驚いてしまった。




  • 下田

    一方、下田は、実のところなまこ壁より前に、石造りの建物が多く建てられていた。

    1855年の安政の大地震の津波で、下田のほとんどの建物は流されてしまう。
    このころは1853年にペリーが黒船で来航して間もなく、日米和親条約が
    締結された直後。急ピッチな復興が必要になったうえ、
    諸外国に権威を示すためにも、町並みは堅牢に美しく整備されたという。

    下田は伊豆石の産地で石材が手に入りやすかったことから、
    当時は石づくりの町並みが形成されたという。
    その名残を、いまもペリーロードなどで見ることができる。

    ペリーロード









    もちろん、下田にもなまこ壁の建物は点在する。
    ペリーロードの近くにある「安直楼」は、下田の悲劇的なエピソードで知られるお吉が晩年に開いた料亭。
    お吉がハリスの妾になったのは短期間の話で、その間に当人たちがどういう関係にあったかは定かではない。
    お吉はそれよりも、その後の村八分的な状況に苦しまれた。
    間もなくお店は手放してしまったようだが、42歳の時にこの小料理屋のお店を開いていたというのは意外な話だった。





    ここペリーロード界隈と関わりを持つ人物として、三島由紀夫の名前が挙げられる。

    三島由紀夫は自決するまでの7年間、毎年夏に下田東急ホテルに滞在し、家族で穏やかな時間を
    過ごしていたそうだ。
    ペリーロードからさらに奥の上り坂を抜けると、東急ホテルへ続く道になる。途中、入江になっている海岸線に
    突き当たるが、そこは人気がなく、プライベートビーチかのようだったが、この海岸線をずっと歩くことができる。

    三島氏もこの界隈を散策したり、ビーチで泳いだに違いない。また、ペリーロードにも足を運んだことだろう。
    その頃、あそこはどんな景観だったのだろうか。
    日本文学を海外へと広め、三島氏とも深い親交があったドナルド・キーン氏が最後の夏に会ったのも、
    ここ下田だった。そして、遺作「豊饒の海」の天人五衰を大成させたのも、ここだという。
    最後の年、三島氏はこの場所を歩き、何を思ったのか。そんなことに思いを馳せずにはいられない。



    下田の海岸でも、黒船の遊覧船が巡る港湾とはひとつ奥まった場所にあり、ここは静かだ。
    散策しながら穏やかな時間を過ごすことができる。


    この旅行記の主題、「なまこ壁」からすると、下田のなまこ壁の家は少なく、松崎を訪れた後だと
    物足りなさ感じる。
    しかし、下田は石造りの町並みとしても興味深く、何よりペリーロードの町並みは美しく、
    それだけでも十分に訪れる価値がある。
    また、町の随所には上述のようなエピソードがあり、それを踏まえて散策するのもまた楽しい。




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