旧金森洋物店と株式会社相馬社屋をモデルとし、函館の街並みを再現するペーパークラフト

旧函館区公会堂のペーパークラフト



函館の旅

ハリストス教会、石川啄木、五稜郭の旅

函館の港に響く
ガンガン教会の鐘の音。
この独特の音は函館の息吹のように
今日も山麓の街を
つつみ込む。





     ハリストス正教会と函館山麓
       ・ハリストス正教会
       ・八幡坂
       ・旧函館公会堂
       ・函館の夜景

     石川啄木の墓碑、立待岬、青柳町周辺
       ・立待岬
       ・石川啄木の墓
       ・青柳町

     五稜郭



  • 館は、五稜郭や駅のある内陸側と、
    海に囲まれた函館山周辺とでは趣が異なる。
    地形の変化に富み、多くの文化的遺産の残る
    函館山麓は、じっくり見てまわっても飽きることがない。


    私は2012年に長崎の外海、青森の弘前、
    ここ函館を中心に旅したが、
    そのいずれでもキリスト教や西洋文化が
    広く流入した土地であるというのも偶然だった。

    函館に正式にキリスト教が持ち込まれたのは、
    長崎と同様に門戸開放の折。
    ロシアの伝道師ニコライにより、正教が
    日本で始めて、この地に布教された。


    函館は、風情ある坂道を登る楽しみがある。
    そして取り分け、教会が並ぶ界隈は異国情緒を漂わせる。


  • 函館ハリストス正教会


    虔に一途に布教活動を続けるニコライの姿は
    人々に尊敬の念を抱かせ、正教の教えも徐々に拡大していく。
    現在も御茶ノ水に残る「ニコライ聖堂」は
    ニコライの真摯な活動の大成といえるが、
    対露関係が悪化している当時の日本では、
    教会建立にも多大な労苦があったことだろう。

    日露戦争勃発の折、ロシア公使館も日本から引き上げる中、
    ニコライは日本にとどまり続け、揺らぐことなくその教義を貫いた。
    そんな人格者であったからこそ、
    ニコライはいまでも敬愛されている。


    「ニコライ聖堂」はここ、「函館ハリストス正教会」の
    姉妹教会といえるだろう。ニコライ聖堂が関東大震災で
    大破した際には、復興のためにこの教会の大鐘が提供された。
    それからこの教会には6個の小鐘が付くようになり、
    その鐘が独特のリズムで鳴り響くことから、
    ガンガン寺の愛称で親しまれることになる。


    日本では数少ないロシアビザンチン様式の建築物の中でも、
    取り分け「函館ハリストス正教会」はロシアの風を感じる。
    その理由はやはりこの葱坊主と十字架にあるだろう。
    八端十字架と呼ばれる十字架は独特な形状をしているが、
    ロシア・ウクライナ・ブルガリアの正教会で特徴的なため、
    やはりロシアの教会を象徴する。

    そしてこの葱坊主は殆どたまねぎ形をしており、
    それがより一層異国情緒を強めている。



    教会があるのは函館山麓の坂道の上。
    ここから直線上に多くの観光名所が集中する。

  • 八幡坂
    函館の独特の地形からしか見ることができない景観。


  • 旧函館区公会堂
    これも明治期の建築美を強烈に感じる美しい建築。
    淡い青と黄で構成された色調は、どぎつくならずに
    絢爛豪華さを主張している。



  • 函館の夜
    函館は夜景の名所というのは言わずもがなだが、
    この夜景に移り変わるまでの、刻々と情景が変わる夕暮れの景色を
    楽しむのが一番の贅沢かもしれない。


    夜の函館はよりいっそう、幻想性を増すように思える。
    高台に建つハリストス教会は、夜のライトアップにより神秘的に映える。


    旧公会堂もライトアップされている。
    光により色調がより淡くなり、周囲の暗闇の中で存在感が際立つ。
    このやわらかい色彩、昼間とは別の建物のようにすら思えてくる。


    路面電車の走る道路は、オレンジがかった電球色により、
    西洋の街を歩いているかのような錯覚に陥る。
    夜の散策をせずにこの地を去るには、あまりに惜しく思われる。


  • 川啄木が眠る、立待岬が臨める、大森浜界隈の風景。
    普段から人通りが賑やかな教会や八幡坂とは反対に広がる。


  • 川啄木は、たしかに貧窮の中で死を迎えたが、
    しかしそれは、彼がその貧窮の中に創作の根源を
    求めていたために、そうならざるをえなかった節がある。
    「金のある時は何も書けぬ。自分は矢張貧乏の方がよい様だ。」
    本人が遺した言葉である。

    彼の才能は周囲から評価され、支援者も彼を支え続け、
    決して見捨てなかった。それが証拠に、彼の墓地の近くには
    彼を慕う者の碑が並ぶ。



    にも関わらず、彼はその支援をも、
    放蕩の中に費やしてしまう。
    仕事があったがすぐに辞め、
    借金があったが芸者と遊んでしまう。
    これを放蕩といわずになんと言おう。

    石川啄木の職歴、居住を連ねると、
    転々と目まぐるしく移り変わり、それは漂泊の人生となる。
    しかし、彼の句を読む時に感じる郷愁の念や
    人生の悲哀の共感といったものは、
    万人が共感しうる名句ばかり。
    その彼の繊細な感受性ゆえに、彼は人生を漂流せざるをえなかった
    のだろうと思える。

    啄木の函館滞在は137日と短い。
    その時にこの函館で何を感じたのか。
    それを知ろうとするのは非常に興味深い。


    立待岬に向かう街並みは
    あまり観光地化されていない、函館の
    原風景が残る。
    「函館の青柳町こそかなしけれ
     友の恋歌
     矢ぐるまの花 」


    ここ青柳町から坂道をくだり、終着駅、谷地頭駅に路面電車は停車する。
    この風景がなんとも画になる。
    この界隈の道を、
    啄木も行き来していたのだ。

  • 啄木の墓地から臨める大森浜の海岸線は、ただ広大で荒く、圧倒された。



  • 稜郭

    子どものころ、五稜郭の上空写真をはじめて見て、
    これもピラミッドや前方後円墳と同種の、
    王族の墓なのだろうと漠然と思った。



    の五稜郭が造られたのは幕末激動の時代。
    諸外国からの圧力に屈し、
    幕府が急遽開港を決めたのは下田、箱館の二港だった。
    突貫の開港を迫られた箱館は、
    国防に危機感を煽られる。

    そんな中、フランス軍艦で病気が蔓延し、
    函館に上陸して療養の許可を求めた。
    まだ条約締結すらしていなかったが、
    函館奉行はこれを認め、多くの人命を救った。
    この人道行為は日仏の友好的な交流のきっかけとなり、
    またその返礼として様々な情報がフランスから提供された。
    その情報の中に西洋の築城技術があり、
    これが五稜郭の設計に生かされることになった。



    五稜郭の中を歩くと、日本の城を散策しているのと
    同じ感覚に陥る。堀、石垣は日本建築であり、
    内部からだと西洋を感じとることはできない。

    設計思想は西洋、建築は日本という和洋折衷の
    城塞はこうして誕生することになった。

    ただ、この設計思想は中世ヨーロッパのもの。
    高度な文明が急速に発達する時代において、
    すでにその思想はいささか古くなっていた。
    今日の常識が、明日の常識ではなくなってしまう。
    それが文明の恐ろしさでもある。
    たしかに白兵戦では有利な形状だが、
    近代の大砲は射程距離を飛躍的に延ばし、
    このような広大で目立つ建築では格好の標的となってしまう。
    現に箱館戦争の折、五稜郭の中央にある奉行所の
    鐘楼が格好の標的となり、幕府はあわてて鐘楼を取り外したという。


    奉行所という本来的な役割はたった3年しか果たせず、
    幕府は大政奉還を迎えることになる。
    そしてその後は、対国外という本来的な用途とは逆の、
    旧幕府軍対新政府軍の最期の戦場として使われる。
    2010年に再建された、まだ新築の香がする奉行所。
    主を失った城砦はようやく、その姿を取り戻した。









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