天草
崎津集落
を巡る
天草 崎津集落 崎津教会
天草 崎津集落
これまで、当サイトでは、潜伏キリシタン関連の記事として、以下を書いている。
・
長崎 外海
・
野崎島 野首集落
・
津和野
いずれも潜伏キリシタンにかかわるものであり、
また、2018年には長崎の外海、野崎島の野首集落に関しては
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産に認定された。
長崎・外海などの潜伏キリシタンと、天草の潜伏キリシタンは、
異なる経緯をたどっている。
今回は、天草の旅を通じて、
天草の潜伏キリシタンの辿った軌跡を、自分なりに読み解いていきたい。
崎津集落へのアクセス
天草は車でアクセスするのが一般的かつ利便性が高いが、
当サイトでは徒歩、鉄道・バスでのアクセスを原則としているため、
先ずアクセス方法を詳解したい。
天草は大きく、上天草と下天草に分かれる。
鉄道の(島の手前の)最寄り駅、「三角(みすみ)駅」からフェリーで
簡単にアクセスができる、リゾート地の色合いが濃い「上天草」。
崎津集落や大江教会や、天草陶磁器の窯元などがある、
文化的な色合いが濃いのが「下天草」となる。
熊本駅から天草へのアクセスは、
上述の「三角駅」からのフェリーと、天草直通バス、
快速バスあまくさ号がある。
熊本駅から三角駅までは、観光列車「A列車」に乗ることもできるため、
旅情に浸りたい場合はこちらをおすすめする。
上天草と下天草の中間点に「本渡(ほんど)」があり、
ここがバスやフェリーでのターミナルになる。
ここから周遊バスを利用すれば、主要な観光地を巡ることが
できるため、時間の都合が合えば、そちらの利用もすすめたい。
私は、地理関係を詳しく理解せずに上天草の「松島」の
ホテルに泊まることにしたため、崎津集落へのアクセスは、
より困難になったことは認めざるをえない。
利便性を確保したい場合、本渡や下田温泉周辺のホテルに
宿泊することをすすめる。
上天草・松島
2019年現在、以下のバスコースで崎津集落へのアクセスは可能となる。
①松島→本渡・車庫行きのバス→天草中央総合病院前下車
②牛深市民病院行きのバス→運動公園前下車(天草コレジョ館の最寄り)
③天草コレジョ館の見学→下田温泉行バス
崎津下車入り口下車
このコースの難点は、それぞれの乗り換えで、
待ち時間が発生してしまうこと。
特に③の下田温泉行のバスは1時間半も待ち時間が発生するため、
私は天草コレジョ館でタクシーの配車を依頼させていただき、
崎津集落まではタクシーで行くこととした。
また、タクシーに依頼すれば、崎津集落の対岸からの景観を望める
ルートも通ってくれるため、ぜひそのルートをおすすめしたい。
天草の潜伏キリシタン
さて、本題に戻り、ここからは天草の潜伏キリシタンの経緯について。
天草にキリスト教が伝来されたのは、
ルイス・デ・アルメイダの布教よる。
大航海時代、ポルトガルが覇権を握っていた時勢、
アルメイダは貿易商として来日し、巨万の富を手にしていた。
その時に、フランシスコ・ザビエルとともに日本で宣教を行っていた
トーレス司祭と出会い、感化される。
このトーレス司祭は、ザビエルが布教を日本にもたらした後、
実質的に日本への布教を成功させた人物といえる。
異国でのはじめての布教活動が、どんなに大変な労苦があるか、まったく想像もつかないが、
異国の民から猜疑的に見られ、警戒されるだろうことは、容易に想像がつく。
実際、ザビエルも布教活動に苦戦するが、トーレスが日本に信仰の根を
おろせた理由には、彼の「適用主義」が挙げられる。
相手の文化を尊重し、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て過ごす。
この地道な活動と、誠実な態度により、次第に相手の警戒心を解き、やがて尊敬を集めることができたのだろう。
やがてアルメイダは、貿易で稼いだ私財を布教活動に投じるようになり、
日本で初めての病院を設立した。自身も外科医として、(当時は主に呪術的な)医療活動を行った。
また博識に富み、人望も厚かったことから、トーレスからも信頼を得て、
布教がより困難な地域へ出向き、率先して貧しい人々を助け、信者を獲得していった。
こうして天草においてもアルメイダ神父が出向き、天草の人々の信仰の根を下ろすことになった。
それから天草は、小西行長らキリシタン大名などの庇護下に置かれ、島の多くの人がキリシタンとなるが、
関ケ原の戦い以降において、状況が激変することとなる。
西軍だった統治者の小西行長が斬首されると、唐津藩の飛び地として統治されるようになり、
ずさんな検地が行われた。本来の生産高の倍もある石高とされ、過酷な年貢に苦しめられることになる。
また、江戸幕府は禁教政策を強化し、外海などと同様、天草のキリシタンも厳しく弾圧されることとなった。
その厳しい状況下のうえ、さらに飢饉も度重なり、ついにあの「島原・天草の乱」が起こることになる。
島原・雲仙の新山
この凄惨を極める一揆については、宗教戦争の色合いや、西軍の転落武士や浪人の反乱、
また重い年貢に苦しむ百姓一揆の色合いもあり、一概に解釈するのが難しい。
が、結果的に島原・原城に籠城した37000人の老若男女が全員死亡する、と言われるような
前代未聞の事態となった。
この事態を招いた藩主は責任を負い斬首されるなどしたが、石高が適正なものになったのは、
乱から20年以上もかかることになる。
こんな事態になっても、以後の長い禁教時代、まだ潜伏キリシタンと呼ばれる人々は、信仰の火を灯し続けた。
それは、下天草の崎津集落のように、外界と隔絶され、一揆に参加しなかった人々に
より、辛うじて守られたものだった。
それでも、その風前の灯火が消されそうになる事態も起きており、
1806年には、「天草崩れ」と呼ばれる、キリシタンの一斉検挙が行われた。
ここではキリシタンとしてではなく「異宗」として扱われ、
『「異宗」信仰者は宗教上問題があるとは気づかずに、
先祖伝来の習俗であったために信仰していた』、とされ、厳しい弾圧に遭わずに済んだのは
不幸中の幸いだっただろうか。
これはいわば偽装棄教にあたるが、天草の人々は妥協点を見出し、それを受け入れた。
1873年、明治時代に入り禁教令が解かれると、長い暗闇の時代が終わり、カトリックへの復帰が始まった。
以上が天草のキリシタンの、非常におおまかなあらましとなる。
崎津教会
1927年に赴任してきたハルブ神父の希望で、
天草崩れの際に踏み絵が行われた庄屋宅跡に教会が建立されることとなった。
建築を手掛けたのは、数々の名教会を遺した、鉄川与助。
鉄川与助については、
野崎島・野首教会
の記事で照会しているため、参照願いたい。
ゴシック様式で、グレーを基調にした落ち着いた外観、
外壁はコンクリートで、ざらつきのあるドイツ壁風に仕立てている。
屋根は切妻屋根瓦葺きが使われ、リブ・ヴォールト天井構造になっている。
内装は畳敷きになっており、和洋折衷の教会であるといえる。
崎津集落は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産に指定されているが、
この教会が単体で世界遺産になっているわけではない。
あくまで﨑津集落内の景観の一部として扱われている。
崎津集落からの帰路
崎津集落からの帰路のバスでは、「下田温泉」に乗車すれば、
下田温泉から本渡行きのバスに乗れ、行きと同様、「天草中央総合病院前」で下車し、
快速バスあまくさ号に乗れば、松島まで帰ることができる。
「下田温泉」行きの途中で大江教会も立ち寄ることができる。2019年現在、大江教会は
以下写真のように補修工事中で、内部・外部の見学ができない。
そのため、私は大江教会の見学を断念し、
「高浜」で下車し、天草陶磁器の窯元を訊ねることにした。
たまたま、前日のホテルの食事で目にした器、
これが天草の海藻をモチーフにしたもので、美しい白字に際立つ藍色の模様が印象的だった。
このお皿の窯元が、高浜にあることが判ったのだ。
天草は、磁器の原料となる陶石の産地で、その質の高さから、有田焼や清水焼の原材料としても利用されている。
また、日本の磁器の始まりは1616年まで遡るが、有田ではじめて窯が開かれ、続く2番手が天草といわれ、
磁器の歴史も長い。
高浜焼の窯元を見学させていただいたが、模様を活かしたシンプルながら、原材料の白く透明感のある素材を活かした
作品の数々に魅了された。
窯元からの帰路、バスを待つ道中でたまたま見つけたお菓子屋さん「カトレア」に立ち寄り、
店内で美味しいケーキを食べたところ、コーヒーを無料で淹れてくださり、オーナーから、
夕焼けが一番美しい場所や、天草の炭鉱跡の話、などなど、天草の地元ならではの話をいろいろ伺えた。
そのうえ、なんとバスで向かう予定だった「下田温泉」まで、車で送ってくださり、道中、絶景スポットを
案内してくださった。
バス旅だけではとても見ることができなかった、美しい景色の数々。
地元の方の暖かい心遣いに感謝の念を抱きながら、帰路についた。
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